デビルマンその2

なんか、デビルマン酷評リンク集?(http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20041016 )に貼られたみたいなんで少し考察っぽいことも書いておきます。


百歩譲って最大限に好意的に捉えたとして、監督・作家・プロデューサーがこの映画にこめらたメッセージは「人間が人間であること」であると思うんですよ。それはこの映画のキャッチコピーが「人間は庇護るに足るべき存在か」ということからも推察できます。

これは、非常に高密度な原作でも重要なテーマのひとつであると思います。かの有名な焼き討ちのシーンだけではなく、他にもデビルマン(=不動明)が自分は本当にデーモンではなく人間なのか?凶暴なデーモンになってしまっているのではないか?と悩んでいますし、デビルマン達や、彼らを匿った人たちを迫害する人間をデーモン達以上の悪者と見えるように演出されています。

まぁ、僕はそんな原作リスペクトではないのであんまこういう比べ方はしたくないんですけど、この映画が必要以上に原作意識してるからかな。

で、「人間が人間であること」について重要なキーパーソンに原作、映画両方で不良どもがいます。

原作の奴らはデビルマンになる前の明に喧嘩売って飛鳥了に猟銃で返り討ちにされたり、翌日飛鳥がいないところで明に復讐にきたらデビルマンになった後だからやたら強くなっててコテンパンにやられていまうというファンキーな奴らです。彼らはある日、デーモンに操られて明を襲うのですが、逆に助けられ以後、明に付き従うようになります。牧村家の警護などもやっていて、あの惨劇の犠牲者に彼らもいます。

一方、映画の奴らは3人寄ってたかって明をいじめてるだけのセコイやつらです。で、原作同様デビルマンになった明にワイヤーアクションでやられてしまいます。その後、彼らはデーモンがショッピングモール(に見える何か、なぜかボブサップが英語でニュースを喋る街頭テレビがある)を襲った際に出くわし、デビルマンに救われます。彼らはそれが不動明であると気づきます。デーモンには見た目は醜いが人間の味方のいい奴がいると知るんです。でもそんだけ。もしくは、ジンメンに食われた牛君が原作の不良たちなのかもしれないけど、牛君はあくまで人間・不動明を認めたわけであって、彼がデビルマンだからどうというエピソードはなかった。


ここで僕が比較したいのは、良いデーモン・デビルマン(=不動明)の存在を知る第三者がどう行動するかということなんです。原作では助け、力になってくれた。一方映画ではまったく触れない触らない。漫画でも映画でも人間の集団心理の恐ろしさ、醜さを指して「お前らの方こそデーモンだ」というような台詞が聞けます。それはつまり、「人間が人間であること」というのは、抽象的ではありますが心が強く、綺麗なことではないだろうかと思うのです。それを不良チームの行動としてほんのりでも見せるのとまったく見せないのとでは、ストーリーとしての結末が「人間が滅び、デーモン対デビルマンのハルマゲドンが起こる」という同じものを描いていても、一つのメッセージを持った作品としての帰結点は、まったく違うものになるんじゃないだろうか?

悲惨な結末ではあっても、ほんのりと人の希望が見れるのと、作った人自身、そういうことにすら気づかないのとではまったく同じプロットでも全然違うものが出来るということですよね。


「人間は庇護るに足るべき存在か」なんてコピーを作っておいて、それはないと思う。